晃朗 佐古田 晃朗 佐古田

尾道でのこと / From Fake to Confused Real

2023年11月上旬の約1週間、尾道にいた。
そのあいだは論文のことがずっと頭にあって、それに因るロジカルであろうとする思考と、尾道での場当たり的で直感的な思考が複雑に絡まり合っていた。


ある美術家にインタビューをすることが目的の1つだった。
前もって約束することが、この限りにおいては違うような気がして (あるいは本当に必要なら約束せずとも会えるような気がして) 、とりあえず行ってみることにした。この考えは、同様にこの限りにおいてはほとんど正しくて (ただ現実の状況により少しかたちを変えて) 、実を結んだ。


予感によって行動することは、実際にはなかなか難しい。
多くの場合、予感のような不確かさをそのまま行動に結びつけることは妥当ではないように思われる。
そうやって、ついつい確かさに帰着してしまう。そうでない方が物事を良い流れの中に留められる場合でも。



今はやっと、せわしない数日が過ぎ去って、彼女へのインタビューの文字起こしをしながら尾道での日々を振り返っている。ティモシー・モートンが言うように現実は穴だらけで、尾道での出来事がこちら側に浸透してきている。そういった現実の当たり前に自覚的であることだけが、京都での自分にリアリティを持たせてくれる。


生きていることと書いていることが、当たり前に、密接に絡まり合っていく。冷静な思考を片隅に寄せておいて、もっと思考を走らせておきたい。
論文を書くあいだもロジカルさを絶対的な正しさに位置づける必要はない。とにかく、現実と踊らなくてはならない。


ときに、多孔性は連帯する
そうやって、互いを加速させていく
孔だらけの輪郭が、加速するリズムの中でダンスを踊り続けている

音楽が鳴りやまないことを祈っている
あるいは、音楽が聞こえ続けることを

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尾道でのこと

秋の気配が現れ始めた9月の後半、ちょうど1年ぶりに尾道に行った。 シュシ・スライマンらによる「NEW LANDSKAP」展とそれに関連する一連のプロジェクトを見に行くため。あとは尾道の山手地区の現状にも興味があった。展覧会に即して言うならば、そこは「Abandone(見放されたもの)」の宝庫であった。

プロジェクトを共にする先生から、この展覧会の存在を知らせてもらったとき、直感的に、すぐに行かねばならないと思った。シュシの言葉を借りるなら、これもまた、ペタンダ(petanda,マレー語で前兆や顕現の意)だったのだと思う。
当初は自分たちのプロジェクトの参考にと考えていたのだけど、結果的には、論文やその先にあるものまで、想像以上に大きくて広い影響を受けることになった。

そこにおいて幸運だったのは、シュシ本人や関係者の方々とさまざまに話ができたことだった。特に、シュシの言葉やイメージ、態度から得たものは大きい。

ここで見たものは、正直、直視し難いぐらい強烈なものだったのだけど、これを見ないふりしてしまっては、もはや建築家というものは存在しえないのかもしれないと感じるほどであった。それほど多岐にわたる示唆がそこにはあった。

ここには、その周縁の出来事を中心に書いておこうと思う。 とはいえ、そのどれもが重要なことであるのは間違いない。そう確信している。
そして、尾道という場所に随分と心が惹かれるようになっている。この論文を書いているあいだに必ず再訪したい。

拉麺またたびのこと

鞆の浦まで寄り道をしてから、2号線に戻って西に進む。
尾道水道の気配が近づいてくる。造船業のクレーンが、道路沿いの建物の上に飛び出してくる。1年ぶりの尾道。妙に不穏な心持ちだった。

前回と同じ駐車場に車を止め、宿に荷物を置いてから街に出る。夕暮れ時だった。何かを確認するように、さっと尾道水道を目に入れ、新開と呼ばれるらしいエリアを歩く。去年はタイミングが合わなかったラーメン屋が開いていたので入った。拉麺またたび。

店主は数日前まで韓国に行っていたらしく、そこで習ったというチャプチェをアレンジしたアテを勧めてくれた。そのチャプチェを食べながらハートランドビールを飲んだ。隣に座っていた、半年間アジアを旅しているというフランス人画家と佐賀から来た農家と話す。その奥にはヴィーガンのカップル。

チャプチェだけで、お腹は十分満たされたのだけど、そうした方がいいように感じてラーメンも頼んだ。とても美味しかった。

思い出せば、そこに重要な兆しがあったように思う。固定的なコンテクスチュアリズムとは相異なる多孔性。文化が、それを推し進める。

外に出るとすっかり日が沈んでいた。
夜の尾道は、海と山がその気配を早くに消していた。確かに朝を待つために、宿に戻った。

しみず食堂のこと

朝、まだ人気の少ない商店街を尾道駅の方に向かって歩く。
商店街を抜けた南側、海沿いの緑地の中にプレハブの店舗がちょんっと佇んでいる。しみず食堂は不思議な建ち方の店だった。

この店にまつわる歴史はずいぶん複雑なようだった。店内の壁中に貼られた写真や新聞のスクラップがそれを示していた。戦後のバラック闇市としての始まりと解体、移転、車道中心の駅前開発による移転。その変遷を、事細かに語るつもりはないのだけど、この場所の不思議な建ち現われ方には、それなりの理由らしきものがあるということらしい。

ただ、周りが変わっていく。ここは他性の海に浮かんだ船。

濃い味付けがジュクジュクに染みた、いなり寿司。サラダとアジの刺身も食べた。

海の方から、程よく強い、心地の良い風が吹き抜けていた。
すだれと布、壁のポストイットにテーブルクロス、スイングドアまで、それぞれに違ったリズムで風に揺れていた。

「NEW LANDSKAP」のこと

しみず食堂で朝食を食べたあとは、「NEW LANDSKAP」の展示を見に行った。この時点でかなり喰らっていた。

シュシは協同を強調するが、彼女の存在が、このプロジェクト全体を多孔的で広がりのあるものにしているのだと感じた。時間、空間、文化、あらゆる次元での多孔化が、素晴らしいあり方で行われている。ショックすら受けるぐらいに。

山手地区のこと / シュシ・スライマンに出会う

展覧会の前後、山手地区にあるサテライト会場を巡り歩いた。 1年前に来たときとは目に入ってくるものが違うように感じた。自分の感覚がなんらか変わったのだと自覚する。変わらないのは猫を探す目線だけ。

サテライト会場の1つ、シドラハウスを見学した後、すぐ近くの道でシュシ本人と鉢合わせた。まだこのシドラハウスの有無を言わさぬ良さにショックを受けているところだった。なんと話しかけるべきか、あるいは話しかけないべきかを考える一瞬の間に、シュシは僕が手に持っていた図録を指さしながら話しかけてくれた。そして少し話をして、午後のトークイベントで再開することを約束した。

そこからはずっと気持ちが浮ついていた。何かが、蠢き始めていた。

バラ屋のこと

滞在中は毎日、商店街にあるバラ屋という喫茶店に行った。 そこには柔和という言葉がぴったりに思えるおばさまがいた。

彼女は会計たびに、毎日変わる僕のTシャツについてコメントをくれた。

「今日のこれは、れんこんなの?」
「今日はいもむし?」

どれもが水玉をモチーフにデザインしているようなのだけど、いもむしはともかく、れんこんは確かにそうだと思った。こういうわけで、これら水玉のTシャツは、いもむしTシャツとれんこんTシャツにもなった。

Untitled #1

街の構造が出会わせる

トークイベントの後、どうにも冷めやらぬ気持ちを泳がせておくように、例の商店街を大きく往復していた。

尾道の商店街は東西に長く、道幅が広いので歩きやすい。多くの人が、移動のためにここに入ってくる。その結果、反対方向に向かう人々とは商店街のどこかですれ違うことになる。片方があてもなく往復運動をしているならば尚更だった。

向こう側から、展覧会の中心人物と、京都から来ていたとある先生が歩いてくる。すれ違いざまに声をかけてくれた。トークで質問したことをきっかけに顔を覚えていてくれたらしい。こちらから声をかけるべきではなかったのかと、シュシと山手の道で出会った今朝のことを思い出す。

立ち話をしているうちに、お茶でもしようということになって、近くのカフェに入った。早く閉まるお店が多く、その辺りでは他に選択肢がなかった。

あれこれ話していると、そこにまた一人、展覧会の関係者がふらっと入ってきた。近場で開いてるのはここだったのだ、と。

果たして、街の構造が我々を出会わせる。
山手地区の複雑に入り組んだ道と、商店街の明快な道、それぞれに違った兆しがあった。

Untitled #2

渡舟のこと / 向島のこと

夕暮れごろ、渡舟に乗って向島へ行った。その名の通り、山手や商店街のある方から見て向こう側の島。渡舟に乗りたいと思っていたのだけど、乗っていなかった。乗る予定もなかった。それでも乗られたのだから、それはとても奇妙なことだった。

向島の堤防に座って、向こう側を眺めると、山手の建物たちがその気配を消していた。尾道水道も自ずからは波を立てずにひっそりとしている。街灯の光が、あまりブレないまま水面に広がっている。近くには砂浜が沈んでいるらしい。


本当に、多孔的に考えるためには、あらゆるアプリオリを議題に上げなければいけない。
あらゆるものごとが奇妙な状態にあるのだと捉えること。主-客体の論理とダンス踊りながら、すべてを並列化する。悪魔合体。


行き来する渡舟が起こす波が、印象以上の大きさになって堤防に寄せていた。

渡舟に乗って向こう側へと戻る。
同じように堤防に座って、向こう側を眺める。係留ロープの先、ブイの上にサギがいる。何かをしているように装っている。

内海のこと / 多孔的そのものになること

図らずも、この夏は内海にいることが多かった。プーケット島東部、小豆島、尾道。 その穏やかさにおいては、いったい何が外力なのか、可視的になりやすい。これまではそう思っていた(もちろんそうでもあるのだけど)。

ちょうど2週間前、論文を指導してもらう中で、論文がそのものが多孔的になることが大切じゃないか、ということになった。固定的なコンテクスチュアリズムを乗り越えて、あらゆるアプリオリを疑って、多孔的になっていくこと。これは書き手の問題でもあるのだと直感した。

そんな時、「決して偶然ではない偶然」に導かれてやってきた尾道。シュシたちのプロジェクトに、その兆しを見たように思った。あるいは彼女のあり方に。彼女が使う、「fake」や「random organize」,「energy」という言葉にも良いきっかけがありそうだった。

一方で、多孔的そのものになることの困難についても自覚するようになった。なってしまった。それは難しいかどうかではなく、辛いことなのかもしれない、という自覚だった。その辛さに目を見開いて向き合わなくてはならない。ここでは、なにひとつ、安定的なものになれやしない。見たくないものまで見ないといけない。内海は穏やかではない。

甘くて気の利いた言葉は近くにある。有限化と切断なのだと。
それもまた、これまで得てきた方法のひとつなのだけど、それに頼らないこのままのやり方で、いったいどこに行き着くのか、それにも興味がある。

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タイでのこと / 踊り続けなければならないということ

「踊るんだよ」羊男は言った。

「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」

僕は目を上げて、壁の上の影をしばらく見つめた。

「でも踊るしかないんだよ」と羊男は続けた。「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」


村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(上)』講談社文庫,2004年,pp.182-183


2023年の8月終盤から9月序盤にかけてタイに行った。タイから京都へ留学に来ている先輩が帰国しているタイミングに合わせての訪問。彼のリサーチフィールドであるプーケットやバンコクを案内してもらった。何から何まで準備してもらって、本当にありがたい時間だった。南部のソンクラーや北東部にも行きたかったのだけど、日程の関係で今回は断念した。また近いうちに行きたい。


ここにはその間の断片的なスケッチを書き起こして残しておこうと思う。
すべてが相対的に生らしく感じられるタイでのこと。いつものように、多孔性ということはもちろん、「ダンスを踊る」という考えが、頭の中にあった。音を乗りこなし、ときには音に乗りこなされて、主客の関係のあいだで踊り続けること。ティモシー・モートンが言うように。

帰国後、ふと思い出して、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を10年ぶりに開いた。まだ高校生だったあの頃とは全く違った物語として見えた。メタファーによる多義性を実感する。踊り続けなければならない。音楽が続く限り。

プーケットオールドタウンへ

関西国際空港を離陸して約5時間後、飛行機はバンコク郊外の上空を旋回していた。 いつになっても、飛行機での移動は好きになれない。少しでも気分良く過ごすために、窓際の席を予約した。眼下には短冊形に整地された何かが広がる。その短辺は街道らしきものに面していて、その街道沿いに建物が建ち並ぶ。奇妙な光景。半ば意識的に、そう思った。

バンコクでプーケットへの国内線に乗り換える。同じように予約した窓際の席から、外の景色を眺めている。飛行機は、パンガー湾の東からプーケット島に向かっていた。人間活動の気配が少ないかのように見える場所から、少しずつ、その気配が目に見えてくる場所へ。電波塔、道路、広告塔。僕は飛行機の中にいた。

飛行機が滑走路に降り立つ。空港を機械的なやり方で通り抜ける。空港の中は長くは居られないぐらいに寒かった。過剰に感じる空調。少しの間、空港の外のベンチで友人を待つ。親近感のある生暖かい風が吹いていた。

彼はお姉さんの車を借りて迎えに来てくれた。その車でプーケット島の南東部、オールドタウンに向かった。
想像通り、バイクが多いなと思う。想像していなかったことに、車は荷台付きのピックアップトラックが多い。いすゞやトヨタのハイラックス。その荷台には5,6人の子どもたちが乗り合わせている。
彼らは、風に吹かれ続けていた。僕は、空調が効いたマツダのデミオから、その様子を眺めていた。

サパーンヒン公園のこと

オールドタウンに着いたころにはすっかり日が落ちていた。彼が手配してくれた宿 (ショップハウスを改装した素晴らしい宿だった) に荷物を置いて、近くのレストランでタイ南部の料理を食べた。角地にあって、通りに面した2辺を開け放っている。風が通り抜けて気持ちがいい場所だった。料理も美味しい。

その後、臨海部にあるサパーンヒン公園に行った。プーケットにはパブリックスペースが本当に少ないのだと聞いていた。この公園は数少ないそういう場所らしい。穏やかな内海に面したそこは、海との距離が近い場所だった。ティーネイジャーの集まりから、家族連れまで、さまざまな集団がそれぞれの場所で過ごしていた。さほど不思議な光景ではないはずなのに、妙に印象的だった。

車に戻って宿に戻ろうとする。信号待ちをしている間、前方を通り過ぎていくバイクが目に入ってくる。そのほどんどが2人乗り、時には3人乗りであることに意識が向かう。バイクに乗り合っているのか、人に乗り合っているのかわからないような、絡み合った距離の近さにハッとする。さっきのレストランでも、公園でも1人の人を見つけることは難しかった。ここは湿度の高い、まだまだ暑いタイの南部。人々は自然と体を寄せ合い、共になって風を浴びながら移動する。多孔的になって、連なっていく。

身に覚えのないノスタルジーが浮かんでくる。自分の記憶にはない過去、あるいはただ思い出せない過去が、意識や論理を置き去りにして、なぜかこの場所と接続している。単なる構造上の類似だったのだろうか。プーケットでの数日間、事あるごとに浮かんできた奇妙な感覚。


朝食のこと

プーケットに滞在している間は毎朝、違ったお店で朝ご飯を食べた。その多くが中華系の移民コミュニティによるもので、朝は6時前から営業を始めるらしい。中華系の移民たちは当初貧しく、とにかく労働時間を長くすることで、その状況を改善しようとしたらしい。それをコミュニティが支えた。朝食店は、より早くから営業を始めるようになる。そして、そのリズムが今に至るまで続いている。

Five-foot way のこと

朝食の後は町を歩いた。午前中はなんとか歩けるぐらいの暑さだった。

プーケットオールドタウンの旧市街には、19世紀後半以降に建てられたとされるショップハウスが建ち並ぶ。(ポルトガルの影響を指摘する声もあるらしいが、基本的にはペナンを経由した中華系の影響なのではないかと教えてくれた。実際ペナンとプーケットはとても似ている)
そのショップハウスの前面には「Five-foot way」と呼ばれる、細長い屋根付きの空間が、道路と並行に連なっている。本来的には、歩行者のためのパブリックスペースだったらしい。しかし、今日のプーケットでは、それぞれのショップハウス内の店舗が拡張された、ぶつ切りのプライベート空間になっていることが多い。故に、通り抜け可能な状況ではない。物で塞がれているケースはまだ可愛いもので、意図的なレベル差を設けたり、アーチ形の開口部をモルタルなどで埋めてしまっているケースも見られた。

彼は、このような現状には、いくつかの問題があるのだと教えてくれた。
ひとつには、そもそも「Five-foot way」は歩道であったため、そこが私有化されるとなると、当初は想定されていない歩道を追加しなければならないことがある。実際、ここでも車道幅をぎりぎり残しながら、その一部が歩道に変えられている。当然だが、十分な幅は無い。
ふたつには、その新たな歩道には屋根がないということである。「Five-foot way」は屋根付きの歩道であった。これはタイ南部の強い日差しを避けられると同時に、スコールなどの突然の雨の中でも、歩くことができる場所だったということである。

ここにもまた、多孔化の要請が起こり得るのかもしれない。

ショップハウスの多孔性、あるいはダンスを踊ること

オールドタウンを歩いている最中、ふと気になるショップハウスがあったので覗いてみた。オーナーらしき女性は建物のことを誇らしく語り、好きなだけ見て行っていいと伝えてくれた。そこもまた、朝食店だった。午前10時前、朝の混雑がすっかり落ち着いた頃だった。

ショップハウスは概して、奥行きが長い。ここも40m近くあるらしい。そうなると当然のように、複数の建物で構成される。それぞれの建物のあいだには、明かりを採るために、コートヤードがあるのだけど、時にそれは、建物の中にも差し込まれている。それもかなり大胆な大きさで。

このショップハウスの場合は、カウンターの奥にコートヤードが差し込まれていた。屋根も壁もない外。要するに、完全には内部化されないようになっているのだ。おかげで、建築の中を、ずっと安定した穏やかな風が通り抜けている。オールドタウンは海にほど近い。海陸風。

色々と話を聞いていると、タイでは強風を想定する必要ないことがわかった。台風はやってこない。スコールのような一時的な大雨はあるものの、それもただ垂直に降るだけだという。だから、排水さえうまくやれば、内部化する必要はないらしい。あるいは寒さを考慮する必要もないらしい。気温の変化は1年を通して小さく、最低気温は常に20度を超える。

根本的に違った音楽の中にあるのだ、と感じた。
抑揚の少ない、安定したリズムの繰り返し。ミニマル・ミュージック。直感的に、ダンスだ、と思う。この場所は踊れている。

多孔化の先で、いったいどうすればいいのか、うまく言葉を選ぶことができなかった。でもそこで、ダンスを踊らなければならない、ということが浮かんできた。耳の穴をかっぽじって、そこに流れている音楽で踊ること。踊り続けること。ひとまず、そうしておこう。

翌朝、このショップハウスで朝飯を食べた。昨日と同じような、穏やかで安定したリズムの風が吹いていた。
たった2日では、何も帰納できないと思いながらも、その2日間の印象強さだけを、そのまま持ち帰ろうとしている。

再び、サパーンヒン公園のこと

夕暮れ前、前回より少し早い時間にサパーンヒン公園に行った。海沿いの遊歩道を歩く。内海の、波の立たない海のリズムが、自分の歩くリズムにしみ込んでくる。振動数の異なる波が、奇妙に響き合っている。

空が広い、と感じた。さまざまな種類の雲が入り混じった空。この場所の天候の移ろいやすさによるものなのかと理由をつけて考えてみる。普段は意識的に見ていないだけで、どこにでもある光景なのかもしれない。ただ、つい、比較的に捉えようとしてしまうことが、すべてを台無しにしてしまうように思う。

すっかり日が暮れた後、近くのマーケットに移動して夜ご飯を食べた。

夕日のこと、あるいは圧倒的な他性のこと

夕方、島の最南部、Yanui Beachの近くの高台から夕陽を眺めていた。その手の名所らしく、徐々に人が集まってくる。皆が海の向こう側に沈もうとする太陽を見ている。その圧倒的な他性の前に、場所と時間、そしてわずかに意識までを共有している。

そのスケールにおいて、日ごろ重要である (かのように感じられる) 我々の差異が、あるいはそれぞれのリズムが、単純化されたように感じられる。かりそめの内側がつくられようとする。そこに内と外を分ける論理が働き始める。何かを対象化して、あるいは外において、内側で連帯しようとする。

どんなスケールの話であれ、内側に位置する安心と、その危険がある。
いったい何が良さそうなことで、何が良くなさそうなことかすらわからなくなる。ただ、そのわからなさの中に留まり続けることが、現時点では最も良さそうな態度なのだと思う。つまり、ここでもまた、ダンスを踊り続けなければならない。画一化されないリズムを踊り続けること。

タラ―トノーイのこと

プーケットで過ごした後は、バンコクに移動した。 しかしながら、バンコクに来てからは、微妙な不調が続いた。注意が散漫になりがちで、体も頭も思うようには働かなかった。残念だったけれど、仕方ない。

バンコクではタラ―トノーイという地区が拠点になった。ここもまた中華系の移民コミュニティのエリアである。例に洩れず、飲食店がそこら中に建ち並び、その脇には建材店やバイクの部品を扱うお店などがひしめき合っていた。

1か所、とても印象に残っている光景がある。
ほどよく見通せない具合にカーブした道だった。向こう側からは時折バイクがやってくる。脇の大木からは気根が垂れ下がり、葉っぱが漏らした光がそこに当たってチラチラとしている。弱い風が、それらを揺らす。その脇では年配の方々が座って話している。

取り留めようもなく、刻々と光景が変わっていくタラ―トノーイの複雑なシークエンスの中で、妙に波長が合った場所。

片目の茶トラ猫のこと

宿の近くに片目の茶トラ猫がいた。 隣のゲストハウスで寝泊まりしているようだった。妙に愛らしく、ときどき遊んでもらった。

広告塔の多孔性、あるいは有ることと無いことのあいだでダンスを踊ること

最終日、バンコク中心部から高速鉄道に乗って、スワナンプーム国際空港に向かった。 車窓からは、巨大な広告棟が建ち並ぶ光景が見える。高架を走る鉄道からよく見えるよう意図された巨大な広告棟。それはときに、広告がない広告塔でもあった。プーケットの空港近くにも、同じような光景が広がっていたことを思い出す。

タイでの時間を通して、多孔性という言葉からどう物事を捉えられるか、あらためて考えようとしていた。頭の片隅程度だったけれど。

1つは、ダンスを踊らなければならないということだった。それも踊り続けること。あらゆるとりまくものとダンスを踊ること。そのためには、何かを無視しようとしてはいけない、耳を塞ごうとしてもいけない。独りよがりになってもいけない。多孔化しなければ、本当にはダンスを踊ることはできない。

もう1つ浮かんできたのは、有ることと無いことのあいだになっていく、ということだった。そもそも多孔性とは、特に地理学の分野では、二項対立では語れない、あいだにあるものごとを捉えようとする概念だった。あの広告塔は、有ることと無いことのあいだにあるようだった。あるいは空き家(という言葉は使いたくないが)だってそうかもしれない。有る/無いの二元論に基づく思考を脱構築するための多孔性。つまりそれは、有ることと無いことのあいだでダンスを踊り続けることなのだろう。あえて言うなら、人間も、建築も。


かなり思考がぐるぐると廻りまわっているいるので、この辺りで一旦区切りにしようと思う。
タイで過ごした素晴らしい時間。案内してくれた彼に感謝したい。ありがとう。

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小豆島でのこと

研究室の先輩を訪ねて、彼が暮らす小豆島に行った。
主には彼が携わった小豆島での仕事を見て、自分が考えられることを伝えるために。(あとはもちろん、夏の小豆島でひと休みするために)

その仕事の1つは、もう1年以上前にひと段落していたようなのだけど、なかなか見に行く機会をつくられていなかった。そうこうしているうちに、僕の京都での仕事がひと段落して、先にそっちを見に来てもらうことにもなってしまった。こういうことはお互いさまなのだとよく分かっているつもりだったので、とても心苦しかったのだけど、今回なんとか機会がつくられてよかった。

とはいえ、2日という短い時間で、時には前提から態度が異なるものごとについて話すことは簡単ではなかった。できる限り解像度高く聞きたいし、話したいのだけど、それには時間がかかることもまた事実で。だからこそ、離散的になってでも、話し続けることが大切なのだとあらためて感じた。話をお互いのあいだに吊るしたままにしておかないといけない。それもできれば風通しの良い場所に。

そういう普遍的ともいえる困難があったとはいえ、同世代 (だと僕は思っている) の先輩の実践を、彼の言葉で聞けるのはとても貴重な機会だったし、自分にとってもまだ不安的で中吊りなものごとについて、率直に話せたこともありがたいことだった。

それはそうと、今回の訪問に際して、先輩や彼の周囲の人たちがさまざまに準備してくれたことにはあらためて感謝してます。また、一緒に行ってくれた研究室の皆にも感謝してます。最初は1人で行こうと考えていたのだけど、みんなで行って良かったと思ってます。

あとはその数日間の断片的なスケッチを書いておこうと思う。

坂手港北東の坂道
道から内海の先まで、ジグザグなリズムが連なっている

馬木地区から見える山と建築物
醤油づくりのための菌が町中に黒ずんだ様相を生んでいる

船のこと

明朝に京都を出発して、徳島を掠めるように通り過ぎ、高松港で小豆島行きのフェリーに車ごと乗り込む。 穏やかな内海を片道1時間。近い。この短さでは何かの踏ん切りをつける契機にはならないな、と佐藤泰志の『青函連絡船のこと』を思い出しながら考える。

何より、この船には軽易な喜びや期待が溢れていているようだった。全体的な高揚感。この日の晴れ模様がまた、その雰囲気に拍車をかけていた。ここ数日、奇妙な動きで不安を煽っていた台風6号が、九州の西側を北上しそうだということになり、この日の瀬戸内海の晴れ模様は実際のそれ以上のものに見えていた。
甲板では階段やホース、その格納箱が機能的な鮮やかさを放っている。心地良い暑さにクリアな視界。かつて曇天の津軽海峡の上で感じた内向的な神妙さは、ここには漂うことすらできなさそうにない。滅却されてしまう。

船に乗るときにはいつも、あの津軽海峡を4時間かけてわたる船のことを思い出す。なにも相対化する必要はないのだけど、あの光景が函館での日々とともに、ふっと頭に浮かんでくる。

ただこの日の瀬戸内海は加速的に晴れていて、かつての津軽海峡はいつも曇って見えていた。本当にそれだけのことなのだけど。

海のこと

待ち合わせ場所の坂手港で先輩と合流し、「まめまめびーる」で素敵なお昼ごはんを頂いたあと、海に行った。といっても、海はずっと見えているので、これは海に入れるところに行ったということなのだけど。

砂浜でひと通りアイドリングをしてから海の中に入って、ただ体の力を抜いて浮かぶ。自分の輪郭がやわらかくなっていく感じを思い出す。
体の水分と空気、海水、それらを孔だらけの輪郭がなんとか仕分けている。そこに働く浮力。瀬戸内海の穏やかな波。何かの実験器具にでもなった気分になる。容器としての自分を他性の「海」に浮かべて、いったいどうなってしまうのか試している。不自由な心地よさ。

そのうち、そのイメージは、二足歩行なんて馬鹿らしいじゃないかと思わせてくる。ぷかぷかと浮かんでいるイメージが支配的になる。地面に力強く立つのではなく、他性の海に浮かぶこと。決定的な違いは、他性に対して自覚的であるかどうか。垂直抗力ではなく浮力。


今でもついつい、自分と海との間に美的な距離を設定してしまうのだけど、やはり本当に中に入らなければならないと何度も何度も思い出す。小難しく考えないと、あるいは例のごとくティモシー・モートンの言葉を思い出さないと、ものごととの距離を無くしていけないことに辟易しつつも、ぎりぎりのところでその小難しさに救われているんだなとも思う。夏の晴れた日の小豆島の海。

馬木キャンプのこと

そのあとはドットアーキテクツが設計した「馬木キャンプ」を見に行った。 これが不思議な魅力のある建築で、この日以来、頭に残っている。

色々論点はあるのだけど、さまざまなレベルでの内と外の関係が魅力的だった。建築内の外から始まり、敷地内の外、そして敷地外の外まで、光や風、さまざまな生き物やモノ、あるいは出来事を巻き込みながら、大きな広がりを生んでいる様子がかなり解像度高くイメージできた。
「内ありきの外」ではなく、「外ありきの外、そのさらに一部が内」という関係になっているが大きな要因だと感じる。単なる透明さに留まらない、建築の開かれた在り方を感じられてたことが良かった。

ひとつ残念なことに、2023年夏の時点では、ほとんど使われていないらしい。時節柄の草木が生い茂ったままになっていた。かつてこの場所にいたらしい人や山羊の不在が強調される。人に使われることだけが大切ではないと思うのだけど、この馬木キャンプは使われていてほしいと思わされる建築だった。

ウミネコとモーニング

2日の朝、起きていた数人で宿から車で15分ほどの場所にある喫茶店に行った。 島を半周する国道436号線が南側の海沿いを走るあたり、瀬戸内海に、もう1回り小さな内海ができるところにある喫茶店。そこしかやっていなさそうだった。

この日は朝から雨が降っていた。店に入って、南側の窓際の席に座る。
外に見える砂浜にはウミネコの群れがいた。みんなわかりやすく風上を向くのでなんだか愛らしい。それはそうと、カモメではなく、ウミネコだとわかったことが妙に嬉しかった。函館で暮らしていた頃、毎日のようにウミネコを見ていたから、僕にとっては当然のことなのだけど。

モーニングセットを頂きながら、店主の女性と話す。いつの間にか店内は僕らだけになっていた。

彼女はその南側の窓から見える光景について教えてくれた。あれはカモメではなくウミネコなのだということ、この内海がいかに波の穏やかな場所であるかということ、外に見える船は今回の台風6号に備えて内海に避難してきているのだということ、それでもかつて大きな災害が起こったこと。

彼女は「長く見ていると色んなことがわかってくるんだよ。」と言った。

途中、なぜかゆで卵だけがもう一度、人数分運ばれてきた。僕は計3つ食べた。

あれはカモメではなくウミネコ。僕は3年前に函館で暮らしていた頃に見分けられるようになった。彼女は長い時間をかけてあの窓から見分けられるようになった。

坂手の茶白猫のこと

島の海沿いにはやはり猫がたくさんいた。

夕暮れごろ、坂手港近くで待ち合わせをしていると茶白猫に会った。
のそのそと近寄ってきて、遊んでくれるのかと思ったら、すぐにお尻を向けて離れていった。

みんなでご飯を食べること

宿には設備が整ったキッチンと細長いダイニングテーブルがあった。みんなでご飯を食べられる場所があると、なんだか良い。
自分の家につくる机、予定より大きくしておこうかな。

人間が住んでいない建物のこと、あるいは「」のこと

例に洩れず、小豆島にもいわゆる空き家が多くあるらしい。 具体的な数値はわからないけれど、日本でも有数の数なのだとか。先輩もまた、その広大な問題系に取り組む1人であって、僕の関心と重なるところが多い。何重にも思考のタガを外さなければ、問題の中に取り込まれてしまうところ。

まず、空き家という言葉には必要以上のイデオロギーがまとわりついているから、できればその言葉を使いたくないと思う。 「空いている」あるいは「家」という言葉は強烈で、こちらの思考を停止させてくる。(ちょうどティモシー・モートンが『自然なきエコロジー』で、従来的な自然の概念に基づかずにエコロジーを語るべきだと主張したことに倣いたい)

ひとまずそういう前提に立つとすると、次には空き家という言葉をどこまで解体するべきかという問題になる。 例えば「人間が住んでいない建築」とか。ここでいう住んでいないというのは、過去にはそうであったが、今はそうではないという事実表現であって、不必要なネガティブさを含意させたくはない。(させたくないとか書いている時点でダメですね)

ただもう一歩踏み込んでいかないと、ただの言葉遊びになってしまう。直感的には、ショッキングな言葉使いをした方がいい。残念だけど、今はまだわからない。これから論文を書いたり設計をしたりしている中で、いい言葉が出てくるといいのだけど。

それはそうと、全日本的に人口が減少していくこの時代においてもなお、空き家を再生させるという考えは未だに支配的になり得るのだろうか。多木浩二の『生きられた家』が示すような、人が住むことによって家が修復されるという物語は、もはや通用しないことは明らかなはずのに、まだ多くの自治体はその事実を直視できないのだろうか。あるいは、そう考えることは個々の人間として辛いことなのだろうか。
(移民を受け入れるだとか、世界的な人口爆発の流れの中に日本社会を確かに位置づけるのであれば、そういう未来もあるのかもしれないけれど、それすらせいぜい数世代のその場しのぎに過ぎないだろうに)

とにかく、人が住んでいる即ち善しだというところに思考の土台を設けることをやめて、あるいは近年のマルチスピーシーズの議論を汲み取った上で、いったいどこに向かうことができるのか。ほんと、それでもなお「建築に何が可能か」とか言って書き始めたい気分になる。

いつも通り思考が霧の中に消えていきそうなので、今日はこの辺りにしておこうと思うのだけど、やはり切れ味の良い解決策はないのだろうなと思う。唯一、手掛かりがあるとすれば、ダナ・ハラウェイが Staying with the Trouble で示したように、困難と共にあり続けなければならないということ。

少しずつ実践のときが近づいてきて、答えを逸る気持ちが増してくるのだけど、なんとか抑えて、中吊りのまま耐え忍びたい。

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晃朗 佐古田 晃朗 佐古田

Lilies of the Field

ある先輩が薦めてくれていた Lilies of the Field という映画を見た。邦題は『野のユリ』。その先輩のお名前はなにかと見かけるのだけど、お会いできたのはあの1度だけ。また会えたら、考えたことを伝えたい。


共同することの困難さと独りに閉じていくこと。またその先で、つくることの具体性を通じて他者に開かれていくこと。
これらのことを、平易簡潔だが底深いストーリーの中に巧く落とし込んでいる素晴らしい映画だった。

なにかをつくること、あるいはつくったことを通して他者に開かれていく様は、だいたいにおいて素晴らしくて、勇気をもらう。

その一方で、物語の進展とともに Sidney Poitier 演じる主人公の Homer が、ある種の権威のように紹介されたり、賞賛されたりする様子が描かれるのだけど、その際に見せるバツの悪そうな顔が印象的だった。(教会を建てる、というこの映画の本筋の中で、彼は一匹狼的な施工者から、次第に皆のまとめ役、いわゆる「建築家」のような側面を得ていく)

紆余曲折を経て教会は竣工するのだけど、その初めてのミサの前夜に彼はその場を発つ。彼にとって大切なのは、竣工を祝ってスピーチをすることでも、ましてやその功績を賞賛されることでもないだろうから。(そもそも彼は放浪者であって、たまたまその場所に寄りかかったに過ぎなかった)

そしてこの去り際には、映画を全体を通して重要な役割を果たしていたように思われるゴスペルソングの「Amen」が高らかに歌われる。これが良い。湿っぽさのないラストシーンの中で、彼は完成した教会を見て「Hallelujah(ハレルヤ)」と歌い、車のエンジンをかける。なかなか感動的な切断点だった。

あとはこの「Amen」の直前に、これまた映画の中で繰り返される英語のレッスンシーンがあって、そこもまた印象深いのだけど、その話はとっても長くなる気がするのでまたの機会に書きたい。

いつか見返したくなるだろうなと思う映画だった。

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