多孔的であることについてのメモ書き
ふと思い出して気に入っていた音源を聴こうとすると非公開になっていた。連鎖的に思い出した対談を読み返そうとするとウェブページが削除されている。以来、それらを聴くことも読むこともできないでいる。家のどこかに眠っている印刷されたページは役に立たないどころか、そんなことはするべきではなかったのではないかと考える。ひょっとすると、今は見せたくないことなのかもしれないから。
小袋成彬の『分離派の夏』は依然として輝き続けているし、『Piercing』には他者に開かれていくことへの勇気をもらう。大切なのは、閉から開へのプロセスなのだと考える。きっとそのときが訪れると信じて待って、慎重に慎重に開いていく。少しずつ花を開かせるイメージ。先んじて存在するのは、というよりは思考が可能になるのは、やはり閉の方である。
とあるプロジェクトで、自分よりも少し立場が上の人(そのことは表面的には隠されている)から、それはないでしょう…というようなことをされ、これはダメだと思って反論する。だけれども、それに憤っているのは自分だけなのかと感じられて腑抜けにされそうになる。それに、ここではその悪気のなさがむしろ厄介だ。悪は実態を持って存在しないから。ともかく、油断して開き過ぎたと反省する。話し合おう。事後的になってでも、開き過ぎた無規定な孔を制御したい。直感的に、事後的な制御の方が今日的には大切かもしれないなあと思う。
大学院生の頃に、とある設計事務所でプロポーザルに参加していたときの苦悩を思い出す。そのときに感じたような理不尽からはできるだけ離れて、あるいは自分だけはそういうことをしないように生きていこうと思ったのだけど、結局そういうことは至るところにあって、気が付いたときには巻き込まれている。それで、自分もまたそういう存在になってしまう、あるいは既になっているのではないかと思って自分の行動を思い返す。そうして、これは気遣いや配慮といった問題であることを再確認する。
重層下請構造。ほんとうに問題なのはコストなどではなく尊厳である。
「多孔的である」ということをずっと考えているのだけど、やはりそこには何かを制御しようとする意志がベースにある。制御しながら、何かに(誰かに)部分的に開いていく。慎重に、疑いを持って。
多孔的であり得たと思える出来事から原広司の『建築に何が可能か』を再読して、そこに綴られた言葉に再び勇気をもらう。ちょうど1年前にも同じようなことをしていたと思う。
街中で猫を見かけるとなんだか安心する。足を止め、しゃがんで、話しかけてみたいと思う。反応が無くても全く気にならない。少しのあいだ、猫の調子に自分を合わせてみたいと思っているだけなのだろう。あまり乱れないように思われる猫の調子に。
リードを繋がれてご満悦な犬を見ていると不安になる。あの犬たちはリードを外されたときにはどうなってしまうんだろうか。頼むから、その場で立ちすくんだりしないでほしい。