081624 @Cafe Collection
今年のお盆も京都で過ごしている。
自分にとっては、お盆といえば徳島の阿波踊りということになるのだけど、今年もついに行くことができなかった。でも、行くことができなかったというと少し語弊があって、阿波踊りに行くこともできたのだけど、京都に残ることを選んだのだった。それでも、ちょっとした後悔が残っている。
前回行こうとしたときには体調を崩してしまい、その前に行こうとしたときにはちょうど台風がやってきてしまった(それでも一部の人たちは踊っていたようだが…)。これからも阿波踊りが開催され続けるかどうかは、ほんとうのところはわからないことであり、自分がそれに行くことができるかもまた、わからないことである。そう思うと、なんだかとても勿体ないことをしたんじゃないかと思って少し悲しくなる。
その代わりに、というとおかしな話なのだけど、大学に入って以来ずっとお世話になっている恩人が初めて阿波踊りに行くというので、あれこれとおすすめしておいた。阿波踊りを見るための場所や近くの真っ赤なラーメンショップのこと。阿波踊りについて、誰かになにかをおすすめするというのは案外はじめての経験だった。とっても嬉しいことだった。
それはそうと、阿波踊りはとっても良い。あらためてそう思う。
街中がなんだか浮ついていて、そういった場の高揚感と、踊りや鳴り物のリズムが響き合い、高まっていく感じがある。踊りはいたるところで繰り広げられるのだけど、僕は繁華街の小さな円形の交差点で見るのが好きだった。そこには、とにかく大きい音を出したいといった具合で反り返ってお腹の太鼓を叩く強面の大男や、なんだか毎年、内輪の流行を取り入れたようにバク転をしたり、糸で操られたように踊ったりする運動神経抜群の踊り手がいて、大勢の観客が団扇で暑さを逃がしながらそれを取り囲んでいる(踊りに使うこともあって、その期間は団扇が街中で配られている)。
少しずつ加速し、大きくなっていく鳴り物のリズムや、左右に揺れる団扇のリズムが自分に浸透してくる。それでだんだんと、逸るような熱い気持ちが内側からも湧いてきて、場と自分の輪郭が曖昧になっていく。ある種の共振状態となっていく。阿波踊りというと、その情景が頭に浮かぶ。
なにより、予定調和的なショーとしてのお祭りとは異なる、その場で刹那的に生まれた空気感、祝祭的な微熱感が確かにある。演者と観客は、ある意味では不可分に、同じ温度の中に包まれている。祭りにおいてそういったことは本来的なのだろうけど、あんがい(今日においては)そういうお祭りは少ないように思う。
お盆の前には数日かけて長野県と愛知県を訪れた。
ある住宅のプロジェクトに関連した目的地を何か所か回って、いくつかの物と気付きを持ち帰った。いろいろと想定はあったのだけど、それとは異なる感覚をその場で得た。じっさいに動くことの良さは、そういうところにある。
気が向いたときに、そのプロジェクトについての少し長いテキストを書き続けているのだけど、またそれを編集する必要が生じる。そうやって実際の経験に導かれて、絶えず感覚は変容していく。
最近いくつか面白い本を読んで、今もいくつか面白い本を読んでいる。
本屋でなんとなく読もうと思った本や誰かにおすすめされた本など色々とあるのだけど、そのどれもが、どこか未来について考えている本だと感じた。それも、過去・現在・未来をある意味で同時に捉えようとするものだった。直接的にそういうことを書いているものもあれば、こちらがそう解釈しているであろうものもある。
とはいえ、ひょっとすると、未来について書いていないテクストの方がめずらしいのかもしれない。あるいは、今日においてはそういった潮流のようなものがあるのかもしれない。はたまた、未来──過去や現在と不可分なものとしての未来──を考えたいと思っているから、あらゆるテクストがそう解釈されるのかもしれない。
ともかく、最近はよく、実感を補填するような新鮮な気付きがあって嬉しい。こういう感覚はなんだか久しぶりだなあと思う。
その間に、長いあいだ積み残しになっていた仕事が少しずつ整理されて行って、ちょっとずつ新しいことに移行できている。それもまた、とっても嬉しいことだ。
さて近所では、もう少しで山に火をつけるイベントが始まるらしい。せっかくだから、このカフェから家に帰る途中に、少しだけ振り返ってその様子を見ようかなと思う。でも、この場所からいっさい後ろを振り返らずに家まで帰ったとしたら、それを目にすることはない。
多くのそれを見つめる人たちを脇目に、それとは無関係にこの場所に潜伏しているように通り過ぎる、そういうのも悪くはなさそうだとは思うが、たぶん振り返るだろう。