112424 @ 自宅
友人と共同で「練習/Rehearsal」という小さな展覧会を開いた。
展覧会をさせていただいたからなのか、会期後には無性に誰かの展覧会に行きたくなった。それである人に勧めてもらった下道基行さんの「ははのふた」という展覧会を訪れた。8畳ほどの小さな空間に写真が数枚と短いテキスト。とっても素敵なものだった。そこには、生きている中でなぜつくるのか、なぜつくらなければならないのか、ということが素直なかたちで存在しているように感じられて、すごく勇気づけられるものだった。僕にも少なからずそういう感覚はあるのだけど、今はまだそれを明確に示せる人に及ばない。でもとっても清々しい気分になった。良い時間だった。
数年ぶりに徳島に行って、かつて暮らしていた場所を車でぐるぐると周った。 人工埋立地の旧印刷所はスポーツを中心とした施設になっていて随分と賑わっていた。ほとんど人けがなかった場所が賑わっているのは不思議なことだった。しかし、そこにあったのは、この場所で生きていた自分としても素直に理解できる光景で、とても豊かに感じられた。ただ、そこに設計された建築には疑問があった。そこに生じていたある種の豊かさは建築の力によるものではなく、ただスポーツの力によるものだと思った。建築はただ気休めとして、その場をほどよく濁し誤魔化ために存在している。ヒロポン建築。いったいいつまで、こういったその場しのぎの劇薬的な建築行為を繰り返すんだろうか…。こういうことはほんとうに中毒的だと思う…。
海沿いの人工海浜公園からいつものように辺りを見ると、いつの間にか高速道路がどんどんと連なっていた。
小さいころ、よく行っていた鉄板焼屋でよく食べたメニューをいただく。高校生のころ、帰り道によく寄っていた何でも屋みたいなところに行く。店主の彼は様子をうかがいながら、久しぶりやなと声をかけてくれた。覚えていてくれてうれしかった。前の道路工事も進んだねと言うと、そうかあ?と言われた。確かに、毎日見てるとほとんどに進んでないのだろう。
徳島から京都に戻って、ずっと積み残していた翻訳の仕上げに取り掛かった。翻訳は楽しい。誰かが書いたこと・話したことを出来る限りそのまま受け止めて、それを尊重して吐き出す。そのあいだ、自分に他者が重なり合う。とはいえ、それは一元的な重なりではなくて、やはりそこでも他者は他者であり、それとは異なる自分というものがある。二元的な思考にとどまりながら、他者を想像する。翻訳にもそういった多孔性とアチューンメントがある。そうしてまた修士論文で書いたことに戻ってくる。そろそろ次に行きたい。
良いリズムに乗り始めたところで、当て逃げにあった。フロントバンパーの右側が割れてしまっていた。どうにかして犯人を探そうという気持ちはあまり湧かず、さっさと修理して無かったことにしてしまいたいという気持ちが勝っていく。かき乱されたままにされたくはない。そう思いながら少しだけ待っていると申し出があった。最初からそうだったのだけど、当人を前にしても怒りの感情は全くなくて、もはや感謝していた。「あなたが申し出てくれたおかげで、私は気分良く自分のペースで生きられそうです!」といった感じで。
結局、相手の保険でフロントバンパーの取替修理をすることになったのだが、そうすると、車を譲り受けたころに柱に擦ってつけた左側の傷もなくなることになる。柱に擦ったこと自体は大した思い出ではないのだが、その傷とはずいぶん長いあいだ一緒に過ごしていたから、居なくなってしまうと思うと少しさみしい。
あたりまえのように、残しておきたい傷跡がある。建物の改修を考えてると、ほんとうにそういうことに思慮が及んでいるのかと不安になる。そしてときどき、どうにもならない他性に突き動かされ、そうした傷跡は強引に消されてしまう。そういう現実をどう理解して生きていったらいいのか、まだよくわからない。
ありがたいお話をいただいて、来年度の仕事を考え始める。築50年のRC部に木造が乗っかったような住宅の改修。
家の近所でRCのマンションが解体されている。前を通ると、胸が詰まるような大きな音がしていることもある。そういう状況を前にして、想像する、あるいは 練習/Rehearsal する。こうした出来事が自分事として起こり得る。そのときに、どういう未来に向かって手を伸ばしたいのかを考えること、それはほんとうに重要な課題になりつつある。