123124 Mind my/your own business@自宅
とある打ち合わせの前に、谷町で目に付いた喫茶店に入る。入口に掛けられた「当店の珈琲は芦屋の水を使用しています」という看板の示したいところが僕にはよくわからない。雀卓にフィルムシートを被せたような席について、モーニングをお願いする。隣の席で、ふんぞり返った設計者と背中が丸くなった施工者が打ち合わせをしている。「このパースで本見積。来週までに。いいクリスマスプレゼントを待ってるわ。」その場から逃げ出したい気持ちと、こんなことがまかり通っていい訳がないという気持ちが生じる。
ときどき胸が詰まるようなときにはフランク・オーシャンの「Future Free」を聴く(そうではなくても聴く)。
開きすぎた部分を意図的に閉じていって、心地良い状態をつくる。生きているといろんなところが開きすぎてしまう。ときどき自分にうまく調子を合わせないといけない。
博多から京都へ、新幹線で戻る。年が明けるといくつかの現場が動き始める。変化が生じて、それがしばし場所に固着する。時間にはたくさんの尺度がある。ただそれが数年、あるいは数十年のことであるとしても、変化というのは大きなことなのだと思う。それに、ある変化が影響を及ぼす時間尺度は、想定よりも実際の方が長くなる傾向にある。それは身の回りのことを見れば、どこからだって理解できることだと思う。
自分の思考がなんらかの空間としてかたちを持ち始めることには喜びと怖さがある。それほど大きな場所ではないのだけど、それでもこの怖さは何回やっても無くならない。そしてそれはスケールの問題ではない。それはそうと、博多はなんだか蠢いている場所で、いたるところで大規模な工事が行われている。善悪を問いたいわけではないのだけど、一体なぜそんな行為を決定できるのかを知りたいと思う。ときに、スケールは重要な問題である。
思考は、試行は、ある瞬間を境にしてかたちを持ってしまう傾向にある。でも頭の中では変化し続けていくし、それらを取り囲んでいる状況も変化する。そうした理解において、建築の可変性、仮性を問う議論は近年盛んになってきているように思う(あるいは多義性を問う議論もある)。ただ多くの場合、そこで語られる仮性は、仮とはいえ一度はかたちを持ってしまうことの重大さを軽んじているものが多いように思われてしまう。
さて、そうではないものを考えたい。循環とかサーキュラーとか分解とか、そういうある種の軽さが付きまとうものではない、長い時間への態度がある。もっと積極的に固着化させたいし、もっと積極的に仮化(多孔化)させたい。練り上げてきた自分なりの思考をかたちにするというのは喜ばしいことではあるのだけど(そのためにやっているのだから)、いつまでも練り続けていたい気持ちもある。
仕事を早めに切り上げて、小さな集まりに参加する。良い予感はなかったのだけど、想定以上に嫌な思いをして気分が下がる。でも他の人たちは楽しそうにしていて、僕もなんとなくその場の雰囲気に合わせてしまう。傷つけられていることから目を背けてしまう。
その後は家に帰ってもなかなか気持ちが切り替わらなくて、ぼんやりしてしまう。発せられた言葉の正誤の問題ではない。誤った言葉でも、十二分に相手を傷つけることができる。この年末年始の、誰からも電話がかかってこないあいだに済ませておきたいことがあったのだけど、完結的につくり上げようとした自分のペースは大外から回り込んできたものに壊される。常々のことではあるが、世界はどうしようもなく孔だらけだ。
一晩経って、開きすぎていた開口部を見つけて閉じる。気持ちをつくりなおす。開きすぎた孔から入り込んできたもののことを考えて、そして自分の誤りについて考えて、今度はうまくやれるようにする。
そうやって遠回りして、そうなるはずだった(かもしれない)12月30日にたどり着く。でも実際には今日は12月31日で、12月30日はもう帰ってこない。そして書き残したいと思うことが増える。次は間違えないために、書き残す。
それはそうと、お正月はあったほうがいい。電話が鳴らないから。