近頃のこと──にんにく、読書会、『Nomadland』、トヨタのウィッシュ、『Blonde』、あるいは建築のこと

少し遠くに思える場所を旋回しながら、建築の話をしたいと思っている。

いまさら言うまでもないが、驚くほどすべてのことが建築(的)である。そんな中でも、建築にこそできることがあるのだという考えを意識的に持とうと、あるいはそれを捉えたいと考えている。近年、他分野の人と関わる機会が増えることで、その考えはより一層強くなった。一方で、今日的な正義を背負って建築を捉えているようで、もはや建築である必要がなくなっているものがある。それも、とてもたくさんある。こうした感覚も、日に日に大きくなっている。

そういった考えを背景に修士論文を書いて、先週、大学に提出した。思いのほか頑張って書いたので、あらためてここに焼き増しのようなことを書くのはどうかと思っている。なので、論文には書けなかったことを中心にして、少し遠くを旋回するように建築の話をしようと思う。ただ、続くテキストの補助線としてひとことだけ書いておくとすれば、どこまでいっても、「私」に立ち返らなければならないということである。


にんにくの香りをオリーブオイルにうつすこと

去年からにんにくを買うようになった。皮と芽がついている、あの種のにんにく。ずっと前からそうするべきだったと思う。こういうことは驚くほどたくさんあるのだけど、皮と芽がついたにんにくというのは、その中でも重要なことのひとつだった。

つまりこれは、にんにくチューブではなく、皮と芽がついた、あのにんにくだからこそ感得可能な何かについての話である(にんにくチューブを批判するつもりはありません。どうぞご注意ください)。

僕にとってのにんにくは、今のところは、とりわけパスタとの関係において存在している。最近はパスタをつくっている時間がとにかく楽しい。ちょっと前は、コンビーフライスをつくることが楽しかった。とある素晴らしいカフェで提供されているものを真似ようとしていた。そして今もよくつくっている。でも最近は、とにかくパスタをつくることが楽しい。オリーブオイルとにんにく、唐辛子、細かく刻んだベーコン、ブロッコリー、あとは4つ割りにしたトマトによるパスタ。たまに、ブロッコリーがアスパラガスに変わったり、野菜を減らしてカルボナーラ風にしたりもするのだけど、とにかくそのパスタを繰り返し繰り返しつくっている。食事のメニューが極端に少ない喫茶店みたいなものだ。


そう、にんにくの話をしようと思っていた。それもパスタにおけるにんにくの話。すべての食材に共通のことだが、にんにくの現れ方は、その下処理のされ方と特に密接な関係にある。大きいままつぶしたり、薄くスライスしたり、細かく刻んだり、すりつぶしたり…。まずこれを考えるのが楽しい。

しかし、それよりも大切なことには、にんにくの香りをオリーブオイルにうつすというあの工程がある。(僕の場合は)5分ほど弱火にかけて、オイルとにんにくを関係づけていくあの工程。もちろんチューブのにんにくでもこの工程は行えるのだけど、はっきり言って、味気ないし、面白くない(それでもにんにくチューブを批判するつもりはありません。どうぞご注意ください)。

それはそうと、にんにくの香りをオイルにうつす工程って、いったいなんだろう(どうでもいいことだけど、僕がにんにくチューブを開発できるような人間だったとしたら、その工程が済んだオリーブオイルを商品化するだろうし、現にそういう商品は必ずある。調べなくてもわかる)。
その工程はとにかく楽しい。火にかけると、少しずつにんにくの香りが出てくる。ただ、火・にんにく・オイルの関係を注意深く見守りながら、良い頃合いがくることを待っている。そんな工程である。そしてこの工程の出来が、パスタの味に決定的な影響を与える。

パスタそのものは、どちらかというと強い存在、マッチョな存在ではない(筋肉質の諸存在を批判するつもりはありません。どうぞご注意ください)。あえて書くすれば、自己完結的というよりも、多孔的なのである。他の影響を受けやすい、緩やかな輪郭を持つ存在としてのパスタ。ゆえに、にんにくの香りをうまく引き出せるかが、パスタにとっても重要になる。しかしながら、にんにくの香りを引き出す工程において、「私」には必要以上の何かをすることができない。「私」にできることは、ただ火・にんにく・オイルの関係をアチューンメントし続けること。そのときどきの状況を注意深く見ること、前持って用意した正しさに当てはめないこと(たとえば料理の面白さは、こういうところにあるのだと思う)。


修士論文では、環境哲学者のティモシー・モートンを参照して、「私」と「私ならざるもの」の関係をアチューンメント(attunement)する重要性を論じた。もちろん、論文ではしっかりと建築のことも書いたのだけど、アチューンメントというのは、とうぜんに一般的な概念であり、特に料理と相性がいい考え方なのだと思う。


パスタにおける、火・にんにく・オイルのアチューンメント。緩やかで影響を受けやすい、多孔的な存在としてのパスタ。そして、それを食す「私」。そこには常に、より高次のアチューンメントがある。

そういう小難しい話はともかく、夜に控えめな音量で音楽をかけて、にんにくの香りをオリーブオイルにうつしている時間はなかなか良いものだ。いろんなものとの関係がアチューンメントされていく気配がある。
この数か月、あれこれと忙しなくしていて外食が多かったけれど、しばらくはできるだけ家でご飯を食べたい。そしてこれを機に、後回しになっているキッチンの改装を進めて、ダイニングテーブルをつくろう。そうやって、いつか起こるかもしれない未来を、たとえば誰かを招いてご飯を食べる機会を見据えたい。

建築をつくるということは、「私」と「私」による、時間を超えた約束事なのだと思う。

それはそうと、そのときにはワインも買わなければ。
ワインは良い。ずっとウィスキーやビールを好んできたけれど、最近はワインを飲みたいと思うことが多い。

読書会のこと/「Anthropocene landscapes」と「Holocene fragments」

昨年から、人類学者であるAnna Tsingへのインタビューを扱った読書会をやっている。

隔週ペースの開催で、すでに半年が経った。そして英語で書かれたものだとはいえ、まだ6ページしか進んでいない。これはとんち話ではなく、ごく一般的なサイズの6ページであって、ましてやインタビュー(口語)である。さすがに遅い。ただもちろん、このことに不満があるわけではなく、ただその事実を書いてみたかっただけである。いつも枝葉の話が盛り上がりすぎるような、有意義で楽しい会になっている。

先日の会では、「Anthropocene landscapes」と「Holocene fragments」という重要な話が出てきた。訳すとすれば「人新世のランドスケープ」と「完新世の断片」だろうか。それらについて、例のごとくあれこれと話していた。そうしているうちに、良い頃にはこれらについてのまとまった文章を書くべきだと感じた。

というのも、今日の日本の建築界における奇妙な分断、というよりはねじれを(僕はそれがあると感じている)、うまく説明できるような気がするのだ。もちろんこれは、何かが正しくて、何かが正しくないといった単純な議論ではない。ただ、僕の考えているような「今日的な正義を背負って建築を捉えているようで、もはや建築である必要がなくなっているもの」が確かにあるとすれば、それは「Holocene fragments」と密接な関係にあるものだと思う。つまり、「今日的な正義を背負った試み」の多くが「Holocene fragments」にしがみつこうとすること、あるいはそれを拡張しようとすることに帰着しているのではないかということである。

さて、また自分以外には解読不能であるような文章を書いてしまったようで悲しいのだけれど、ちょっとしたメモ書きとして、たまにはこういう文章をこの場所に書くことを認めたい。

読書会後は、いつも近くのカフェでランチ。カツサンド。

『Nomadland』のこと

久しぶりに『Nomadland』を見た。
公開以来、自分の中で重要な映画であり続けていて、見るたびに異なる考えがかたちづくられる。『Nomadland』について書き始めるとほんとうにキリがないのだけど、今日は引き続き、メモ書き程度に2つのこと書いておこうと思う。前から考えていることと、いま考えたこと。

『Nomadland』は、北アメリカ大陸の広大なランドスケープの中を、車とともに生きていく様子が印象的な映画だ。
ただ、(僕が思う)決定的な場面では、ファーン(フランシス・マクドーマンドが演じる主人公)は車から降りている。あるいは、車が登場しない。友人に声をかけられながら歩く場面、海沿いの崖地をひとりで歩く場面(この場面はほんとうに辛い)、そしてかつて暮らしたネバダ州のエンパイア、家に戻る場面。
一方、思い出を反芻する場面では車内のカットが増える。写真を見返し、思い出の物を愛でる。車は過去を詰め込んだものとして描かれる。

そのようにして、絶えず移り変わる広大なランドスケープ、あるいは外の世界に対し、車という空間が保持する完結性と過去が強調されている(車の完結性を批判するつもりはありません。どうぞご注意ください)。

そしてもう1つ、ファーンが暮らしていた場所のこと。
鉱山の採掘場が閉鎖され人が消え去ったエンパイアという場所。それはまさに「Anthropocene landscapes」だった。

『Nomadland』は、多義性に富んだ映画だと思う。そしてそれは、映像だからこそできることに基づいて生まれている。

トヨタのウィッシュのこと

『Nomadland』では、決定的な場面においてファーンが車から降りていると書いた。だけど、それは映画における車の重要性を揺るがすものではない。 車は確かに存在するし、変わらず重要なものである。

そして僕も、トヨタのウィッシュと日々を過ごしている。
それはかつて、われわれ家族のための車だった。時が経ち、今では僕にとって欠かせない存在になっている。しかしながら、とても悲しいことなのだけど、それとの別れが近づいていることも確かである。まだまだ一緒にいてもらいたいが、メンテナンスだけではどうにもならないことがあるのだろうと身構えている(とつぜん爆発してしまったらどうしようと考えることもある)。ただ、スクラップされることは何とか避けたい。それは家と、あるいは建築と同じことだ。画一的な破壊や画一的な再生ではない道を見出したいと思っている。

それはそうと、近頃、ウィッシュとのこと、あるいはウィッシュでのことをあれこれと思い返していた。同じく近頃考えている、入口/出口との関係において。たとえば、このウィッシュと何らかのかたちでずっと一緒にいられるとしたら、この入口/出口の話に何らかのケリをつけられるのだろうか…。

車に限らず、あらゆる空間・場所で起こっていることは、何かが入ってきて、そして出ていくということなのだといえる。かつて海だった場所に大陸がやってきて、またいつか海になる。地面からは木々が生え、そのうちに枯れる、あるいは刈られる。雨は降った後にだけ止むことができて、建築は建てられて壊される。

車には、ドアという明確な出入口があって、別の場所への移動というそれらしい目的が備わっている。それゆえに、出入りが頻繁に、あるいは最もらしいものとして生じる。このウィッシュも例外ではない。多くの人やもの、あるいは雰囲気のようなものが入ってきて、そして出ていった。

そして、たいていの場合において、このウィッシュには「中身」が存在せず、「からっぽ」の状態に保たれている。明確な「中身」と言えば、積み込まれたCDと数冊の本くらいだ(ファーンが乗る車も、同じように「からっぽ」なのだと思う。「からっぽ」さを捉える時間尺度が、僕のウィッシュとは異なるのだけど)。

修論で参照していたベンヤミン,ラツィスによる『ナポリ』—それはイタリアの都市、ナポリを多孔質だと論じるものだった—にも、似たようなことが書かれていたのを思い出した(いま、手元にないのがとても残念)。多孔性は「からっぽさ」と密接に関わっている。

ごく簡潔に書くと、過剰な多孔性は何1つ確かなものをとどめておくことができず、「からっぽ」になってしまう。車には、その傾向があるのだと思う。明確な出入口と、移動というそれらしい目的によって。一方で、このウィッシュは存在している限り、何かが入ってくる可能性に開かれている。あるいは、出ていったもののなかには、もう二度と入ってこないであろうものがある。時間や場所、そして事。

決して、悲しいことや寂しいことを書いているのではないのだけど、「入口と出口」とか「からっぽ」という言葉が潜在的に持つ物寂しい雰囲気が、このテキストにも入り込もうとしている。書かれることもまた、多孔的になってしまう。

フランク・オーシャン『Blonde』より、「White Ferrari」を聴いていたのだと思う

フランク・オーシャン『Blonde』のこと

修士論文を書いているあいだは、何度も何度もフランク・オーシャンの『Blonde』を聴いていた。いまさら言うまでもないが、とにかく素晴らしいアルバムで、「『Blonde』のおかげでこの数か月を何とかやってこられました」とフランクに感謝を伝えたいぐらいだ。彼とその音楽に対してこういう想いを持つ人はきっとたくさんいるんだろう。

『Blonde』は多孔性の良い例だと思う。色んな自分に引き裂かれながらも、一貫して「私」にとどまっている。それでいて、周囲のざわめきにも意識的である。

「私」にとどまりながらも他に意識的になること、それは修士論文で書いたことの1つだった。
本論の中で直接的に引用したわけではないのだけど(その技量は今の僕にはない)、『Blonde』はそういった考えを支えてくれるものであった。「私」にとどまりながらも自己完結性を乗り越え、多孔的になっていくこと。

それは一歩間違えば、とても危険な考え方になりうる気もする。でも小難しいことは一旦わきに置いておいて、ひとまずしばらくは、素直にやっていこうと思う。まずは京都を離れて、どこか別の場所に行った方が良い。たとえばハワイに行ければいいのだけど、それはちょっと難しい。

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