旅と偽り──欧州にて

なぜ旅に出るのかというと、脱出を求めているからだ。
普段は逃げ出したい場所にいる、というわけではない。ただ、日々を、そのルーティンを大切にすることと、そのルーティンから意識的に外れる術を持つことは、ともにあってこそ互いの価値を高め合うのだと思う。だからこそ、できるだけ毎日同じ場所で同じようなことを繰り返して、ときどきそこから脱出できるようにしておきたい。旅に出ることは、半ば強制的な脱出装置として働いてくれる。

たとえば、芸術家のシュシ・スライマンは、偽り(Fake)という言葉を用いて自身の制作活動を説明する。馴染みのない場所で、その馴染みのなさゆえに物事を新鮮に、あるいは慣習的なコンテクストの外側から見ることができる状態を総合的に表す言葉なのだと理解しているのだけれど、とてもよく表現されているなあといつも感心する。
彼女は、偽りであることは辛いことだけれど、場所の「本当」を理解することを助けてくれるのだと説明してくれた。そのときから、ときどき旅に出ようと思うのは、そうした経験を求めているからなのだとわかったような気がした。ガイドブックに従う模範的観光客のように振舞うことも、あるいはそうした観光客を表層的だと小馬鹿にし、どこまでも「深いところ」に入り込もうとする旅人のように振舞うことも必要としていなかった。何か明確に見たいものがあるわけではない。物事をどう見ることができるのかに期待していた (余談だが、こういうことを考えるときには、その昔に読んだジョン・アーリの『観光のまなざし』がとても役に立っている)。

だから、僕にとって旅に出るということは、偽り(Fake)の状態になろうとすることであると言えそうだ。あるいは、旅に出ることを通して、意図的に偽りの状態になれるよう練習することでもある。つまり、ルーティンが行われる世界の方に、偽りの感覚を持ち込みたいのだ。目新しいものの中に新しい何かを見出すよりも、見慣れたものの中に新しい何かを見出したいという考えがあって、偽りはそのために重要な感覚なのだと思っている。

そうしたことをどちらかというと観念的に考えてきた。2年前、同じように欧州を旅していたころには、このルーティンと脱出/偽りの関係は、固着性と多孔性の関係として捉えられていた。その後、尾道でシュシに出会って、自分の中での問題意識が少し明確になった。それで論文を書いたり、いくつか建築に関する実践に取り組んだりして、もう少しわかりそうになったところでまた欧州にやってきた。

といっても、旅の直前までバタバタと過ごしていて、こうした問いのことはすっかりと忘れてしまっていた(決して笑い事ではない)。ただ、毎日たくさん歩いているとだんだん大切なことを思い出してくる。歩けば何かがわかるということに、個人的で経験的な正しさを認めている。ときどき自分を歩かせないといけない。そういう自分への信頼は少しずつ堅いものになってきた。

それで今回の旅を通じて、この偽りの感覚を建築の空間へと昇華できる兆しが見えたように思う。緩やかな気付きで、20日ほど旅をした中で確か18日目の出来事だった。もちろん、きっかけは京都での日々の中にばらばらと散りばめられていたのだけど、旅先での実感が加わることで急激に何かが構築された感じがある。でももしそれがなかったら…と思うとゾッとするようなことでもある。打算的にならないようにしたいけれど、以前よりは時間の使い方とその効果に対して敏感になってしまう。


いつ以来か、高熱を出してしまい、向こう数日の予定をキャンセルしてしまった。今のうちにやっておきたいことはあったのだけど、それを嘆いても仕方がないので、大切だと思うことに今一度意識的になって、それを確かに思い出そうとしてみる。確かに思い出すということが大切だった。


猫やギロ・ピタ──アテネにて


3月、2年ぶりのアテネ。
20日ちょっとかけて欧州の都市をいくつか訪れようと考え、さも当然だというような感じでギリシャのアテネから始めることにした。旅する間の気候の変化や交通手段のことなどを少しは検討したのだけど、どうもアテネから始めるのが直感的にしっくりくる。それは、頭の中に世界地図──日本向けのメルカトル図法で描かれた世界地図──を思い浮かべてみると、日本からアテネへ、そこからドイツやスペイン、ポルトガルに行くのがどうにも適切なように思われるからかもしれない。日本から西へ西へ、大西洋に向かって進んでいくルートにある種の慣習的な妥当性を感じてしまう。2年前にも同じようなことを思った気がする。もしかすると地球儀を買った方がいいかもしれない。

2度目のアテネにやってきて思ったのは、多くの物事がほんとうには見えなくなってしまったということだった。うんうん、そうそう、そういう感じだよね、といった具合に浅薄な納得感が先行してしまう。もちろん予想はしていたのだけど、数年前の2週間程度の滞在でもそんな具合になってしまう。つい知っているのだという意識が働いてしまう。偽りの有効期限はとても短い。

ところで、アテネのまちにはたくさんの猫が存在している。猫にとって快適な場所なんだろう。飲食店はいたるところにテラス席を拡張していて、そこにはときどき物乞いをする猫や人間がやってきて僕らに声をかけてくる(あるいは落ちたものや残りものを持っていく)。もちろん、例の古代ギリシャ時代の遺跡の中にも猫たちは存在していて、当然「keep out」の掲示は全く意味をなさない。車もやってこなければ、遺跡をまじまじと見つめる観光客と、いったいいつまでかかるのか見当もつかない何かをしている研究者らしき人々ばかりの場所はきっと居心地がいいんだろう。それに、遺跡はたいてい日当たりがいいし。

ギロ・ピタというファストフードがある。ピタパンで薄切り肉をラップしたもので、どこで食べても大体おいしい。お肉はスブラキという串焼き肉の場合もあり、お店によっては玉ねぎやトマト、フライドポテトも一緒に包まれている。ソースにはヨーグルトと胡瓜でつくられるザジキソースが使われることも多く、さっぱりとしてとても美味しい。

色んなお店でギロ・ピタを食べることはギリシャでの楽しみの1つ。前回の旅では、クレタ島ハニアにある「Oasis」というお店で食べたギロ・ピタが一番気に入った。今回の旅では、アテネの街中にある「Kosta」という店で食べたスブラキ型の、それもザジキソースではなく胡椒を効かせた辛い味付けのものが一番気に入った。「ギロ」は薄切り肉というような意味らしいから、スブラキ(串焼き)型のものはもはやギロ・ピタではないのかもしれないけど、まあギロ・ピタということにさせてもらっています。確かにお店の看板には「Kalamaki Pita」と書いてあって、kalamakiは串という意味らしいのだけど、カルフォルニアロールだってお寿司だし、僕は中国人かもしれないから、ニーハオ。

「Kosta」にはアテネに滞在していた中盤に訪れた。最終日にも食べたいと思って行ってみると定休日だった。とても残念。それと「Kosta」にも住み着いているであろう猫がいた。定休日にはきっと横のお店でうまくやるんだろうな、そうであってほしいな。

歩いているときはずっと猫を探している、と言えるかもしれない。あるいは、猫をその痕跡から探している。猫の家、水や餌用の器。猫そのものを見ていなくても、猫のことを思い出す。旅に出ながら猫のことを思い出そうとしている。猫を思い出して、京都の猫のことを思い出す。古代ギリシャの遺跡を見て、京都で関わっている場所の庭を思い出す。アクロポリスでパルテノン神殿を見て、両親のことを思い出す。ギロ・ピタを見て、またしばらくギロ・ピタが食べられなくなることを思い出す。後になってテキストを書いて、それらのことをまた思い出す。

数か月間かけて、ときどき書き足していきます。

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021425 自宅にて