猫のこと

去年まで住んでいた下京区にはいろんな猫がいた。

さっぽろ猫と呼んでいたのは、月極駐車場の札幌ナンバーの車の下でよく眠っていたキジトラ猫たちのこと。いつの間にか札幌ナンバーの車はなくなってしまったけど、彼らは問題なく別の車の下で眠っていた。その後、駐車場の管理者が猫への規制 (そんなことは不可能なのだけど) を厳しくした際には向かいの家の庭で見かけるようになっていた。管理者の愚かさを悲しく思うとともに、猫たちの気ままさは痛快だった。

監視員と呼んでいたのは、夜になると通り沿いのベランダに顔を出して様子を見続けていた黒白猫。ときどき何軒かの屋根をつたって僕の部屋の縁側近くまでやってきていた。当然のことながら彼には人間的な境界など関係ない。

猫太郎と猫次郎というハーネスなしで散歩をしていたキジトラ猫もいた。家主の周りをぐるぐると、塀を登ったり誰かの家に入ったり、一定の距離を保ちながら立体的に散歩していたのを思い出す。あとはよく駐車場に割り振られた数字の上でゴロゴロと転がって遊んでいた。これが本当に数字のところだけを選んで転がるので、彼らをなんとなく賢そうに思わせた。

他にも東本願寺の玄関門ではキジトラ猫と茶白猫によく会っていたし、町家が解体された空き地や工事中のマンションの中、その辺に止まっている車のボンネットの上など、ありゆる場所に猫たちは暮らしていた。

そんな魅力的な環境において、同居人がいたとはいえ、寡黙に建築を設計してテキストに向き合うことを繰り返す日々の中では、人と話す以上に猫たちと話していたように思う。

そして猫たちは、我々人間社会のあらゆる境界を軽々と越えていく Non-Boundary な存在として輝いて見えていた。もちろん虫や鳥だって人間社会においては Non-Boundary な存在なのだけど、猫のそれとはちょっと違っている。のそのそと、本当に境界などないのだと (もちろんそういう意識すら持たないであろうままに) 歩いていく様が人間である僕にはとても魅力的に見える。

同時に我々の不気味なリジットさをひしひしと感じざるを得ないのだけど。

2021/10/19 12:19 さっぽろ猫

下京区での暮らしの中で、人間社会-猫の関係だけでなく、人間社会と猫社会の重なり合いを捉えていくことが大切だということもなんとなくわかっていた。場所に対しての多義性とでも言えるだろうか。

人間社会との関係においては Non-Boundary な存在に思える猫も、彼らの社会の中では、なわばりという境界を持っている。そのなわばり性と人間社会の重なり合いが、同じ場所で彼らと繰り返し出会うことを可能にしている。言い換えれば、猫を訪ねることを可能にしている。

今は誰かの場所を訪ねること、あるいは訪れることができる場所を持つことにとても興味がある。
それは自分の中でそういう機会が減っているという実感によるものでもあるし、自分 (とその領域) を多孔化していくということへの関心でもある。またその領域 (社会) が他の種のそれと重なり合い、多義性を帯びていくことにも興味がある。
(この辺りの話は最近取り組んでいる Donna Haraway の Staying with the trouble に対して何らか建築から答えようというプロジェクトとも関わってくるので、頃合いを見てここにも具体的なことを書きたいのですが)

要するに、猫のなわばり性が他者の場所を訪れる/他者が訪れるという感覚を呼び起こしてくれると同時に、他種間での領域の重なり合いとその多孔性を実感させてくれるいうことです。

もちろんこれは私邸のようなプライベートな空間だけの問題ではないのだけど、下京区の自宅には人が訪れる客間があったし、屋根や天井裏、庭などいたるところが思わず様々な生物の居場所になっていた。もちろんそこには困難さもあるのだけれど、確かに魅力的な断片があった。

最近引っ越してきた新しい家をそういう場所にしていければいいなと思うのだけど、まったく手が回っていない。

せめてまずはこのBlogやHPにもそういう意味を持たせたいという気持ちもある。誰かの場所を訪れるという感覚と重なり合い。
残念ながら今の技術では人間だけが訪問可能な場所ですが。



話を少し引き戻して、猫の場所を訪ねるときのことを考える。

気候や時間、あとは太陽のことなどを考えながら猫の気持ちになって、猫の場所の中でもまさに今、猫がいる場所を探していると案外すぐに見つかることが多い。こういうときはなんだか嬉しい。もちろん場所選びのプロセスにはズレがあるのだろうけど、それでも猫の場所に対するふるまいが、なんらか人間にも共感可能なものに思えるから。

そうするとその次には「今日は暑いなあ」とか「太陽、気持ちいいなあ」とか「そこ、寝心地良さそうやなあ」とか、自然な言葉が出てきてコミュニケーションが始まる。そして、そうやって猫の世界に入ろうとするとき、自分の思考と感覚がごく単純化されたものになっていることに気づく。
ちょうどジョン・グレイが『猫に学ぶ』(原題は FELINE PHILOSOPHY Cats and the Meaning of Life )という本の中で述べた通り、猫は哲学や抽象的な思考を必要としない超リアリストだからだ。欲求に素直で行動は簡潔で明快である。
そういう有り様が、世界との関わり合いにおいてまさに多孔的であって、また猫たちへの憧れが増していくのだけど。
(ちなみにこの本は、猫をヴィーガンにすることに成功したと述べる哲学者の愚かさを書くことから始まります。なかなか示唆的で面白いです。)



ところでなぜ今猫について書き散らしたのかを最後に触れておくと、たまたま読んでいたジョージ・オーウェルの『動物農場』に猫が出てきて、その描かれ方にあらためて猫の魅力を見たからだ。

『動物農場』は動物たちが卑劣な農場主(人間)を追い出し、動物だけの理想的な国をつくろうとするが、その国の指導者となったブタもまた徐々に権力に溺れていくという、寓話形式で権力構造(あるいは直接的に当時のスターリン主義)を批判する文学作品で、そこでは様々な種類の人間がなんらかの動物に置き換えられて描かれている。
例えば強靭な肉体を持つ雄馬であるボクサーは、農場の環境や権力構造が劣悪になればなるほど、自分がもっと働けばいいのだと考えて指導者を妄信し、自身を加速させていく。(これはかなり身近な危険で怖いですね)
あるいは頭が悪いとされる羊たちは、指導者が都合よく作り替えていくスローガンをただ大きな声で繰り返すだけの盲目な存在として描かれる。

この中で猫はというと、そういった全体性に収まらない浮遊感のある存在として描かれている。動物の会合には最後にやってくるし、票決においては賛成と反対の両方に投票する。労働の時間にはなぜかその場におらず、労働が終わった後やご飯時にやってきて、もっともらしい理由とともに喉を愛らしく鳴らして誤魔化すといったように。

当然こんな様子なのだから、全体の中で猫が描かれる部分はかなり少なく存在感がない。
でもむしろその存在感のなさが、読み手も気づかぬ間に不思議と強い印象を植え付けていく。そういう不思議な印象が残る作品だ。

そんな寓話の中の「猫」に魅力と憧れを感じながら、この世界の猫たちにも、できる限り心地よく生きてほしいと思う。
下京区の猫たちは今も元気だろうか。また彼らの場所を訪れたい。

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