260103 自宅にて

2025年は、1960~80年代の建築や著作の中にいる時間が多かった。
(極端な)早寝早起きをし、意識的に家に籠もる日をつくっていたこともあってか、潜伏しているという気分でもあった。そのなかで、研究している原広司を起点として、その交友関係から過去のテキストをさまざまに読み(これが膨大であった)、図面を見て、また自分のテキストや図面、模型に戻っていく。そんな日々であった。

また、いくつかの研究会に誘ってもらって顔を出した。そういう場には「今日においては〇〇を考えることが大事なのだ」という力強い主張と、それを示す手段としての建築、いわば宮内康がいう「アジテーションとしての建築」があった(宮内を読んだことは、60-70年代の動向をある側面から理解するうえで重要だった)。ただ、そうした傾向にはある種の緊張感があって、それに向き合いすぎると疲れてしまう、というのが正直なところだった。
あるいはそれは、「〇〇を考えないこと」と、いつか衝突し爆発する緊張感でもあるように感じていた。そうした感覚のなかで、最近出版された東浩紀の『平和と愚かさ』にはとても興味を持っている。年末年始のあいだに読むつもりだったが、まだしっかりと読めていない。とはいえ、経験による予感めいたものはあって、例えば、ヘーゲル的弁証法が不可避的に衝突(戦争)に行きつくのだとすれば、ひとつには矛盾を引き受けた原の建築思想、たとえば「非ず非ず」などに何かがあるのではないか、ということである。あるいは、ティモシー・モートンのいう「ゆるやかさ」はいかに可能か。

やや強引なところもあるが、今、自分が感じている緊張感は、60年代以降の動向と重なる部分があるのだろうか、などと想像する。特に去年の後半は、60-70年代のテキストを読みながら、時おり、そういうことを考えていたように思う。そういえば、柄谷行人は60年周期説のようなことを言っていた。また、カルチャーの周期は20年だと言われることがある。カルチャーは螺旋的な展開を持って良いような気がするし、20年前というのはアクティブな若年世代のなかにも実体験した過去として残っているだろう(今年、ORANGE RANGEが流行っているという話を何度か聞いたように…)。ただ60年前となると、体験されていない過去になる場合が多い。それは意識的に学ぶ対象であるように思え、去年取り組んだことのひとつだった。

それはそうと、そうしたある種の緊張感が問題を引き寄せ続けている、という感覚もある。あるいは逆に、身近にある問題の連なりが、緊張感をもたらし続けているともいえる。火種はいたるところ転がっている。同時代の動向として理解できる部分もあるのだが、身近な緊張感こそ適度に退けておく、棚に上げておくことも必要なのではないかとも思う。

そういう感覚から、ある建築の取り組みで「サスペンデッド」(suspended)なのだと言ったり、あるいは追々出す本に「能動的留保」や「待つこと」について書いたりしていたのだが、やや観念的であったかなと反省する。実務的に取り組んでいるのだし、今年はより実効性のある言葉や術を見つけ出したい。しかし、これもまた例の60年周期に近いのだが、磯崎らが論じた「不確定性」や「決定不可能性」は、(少しかたちを変えて)再登場しつつあるように思う。磯崎が「歴史の宙吊り(落丁)」としたのが68年からの20年間だということで、そういう時代にどう「展開」をもたらすことができるのか、70年代の殻から抜け出しながら考えていきたいことである。

さて、2026年は前々からひとつの区切りにしようと思っていた28歳の1年になります。
年度内には今取り組んでいる住居の改修がひと段落する予定で、そこからまた新しい仕事が始まりそうです。これまでやってきた仕事も引き続き。
なぜか機会をくださる方々に感謝し、がんばっていきます。
あれこれ書きましたが、去年に引き続き「Mind My Own Business」という感じでやっていこうと思いますので皆さま今年もどうぞよろしくお願いいたします。ご自愛ください。

敬愛する建築家の命日に

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